● 木村広夫の自然農講座 人のための農法、農のための農法。

品を失った現代人

かつて、テレビが急速に普及した1960年代に、評論家の大宅壮一氏が「一億総白痴化』という言葉を用い、それが大流行したことがある。それからずいぶん時が経つが、今の日本人は、益々その度を増している感があると思うのは、私だけだろうか? そんなことを語れるほど私は立派な人間ではないが、現代社会への問題意識を持ち、その解決への糸口を私なりに模索してきたつもりだ。昨今、日本人の品格を問う本が流行しているのもうなずける。

 ところが今や、人としての「品」とか「恥」とかいうレベルではなく、到底人間が想像すらできないほどの、無慈悲残虐な犯罪が起きている現実を見たとき、もう人間は破滅するほかないのだろうか、と思わざるを得ないほどの状況だ。悲しく、空しく、無力感さえ覚える。

 政治が悪い? 教育が悪い? 親が悪い? 環境が悪い? …何が悪い? …何が原因? ……私が考えに考え、行き着いたところが、「農に学ぶ。」なのだ。

 

 静物と動物の大きな違いは、自ら移動できるか否かだが、作物(植物)も、種によって移動し、その環境に適応し、生命を育む。では、人の居場所はどうだろう? 自らの意思だけで(自力)、今、ここに移動し、存在していると言えるだろうか?

 人も自然の一部という意味が、そういうことからも理解でるし、仏教では、人間を「人草」とも表現している。自分を取り巻く環境も自分自身であり、それを受け入れる方法を自然から学ぶ。私たち人間は、個であり、かつ全体でもあるという、「全一的」な意識を育む教育の必要性を強く感じる。

 

野菜の品格

私が作物をつくる上で、一つの標準がある。それは、「美しい」ということ。その中には、味も当然含まれる。「おいしい」は「美味しい」と書き、美しい味という意味なのだが、大事なのは味わい方であると思う。味覚は、味わう人の状態や条件で、いか様にも感じられるもので、そのこと自体はあまり意識していない(もちろん、それは慣行農法の野菜との比ではないが)。

 ただ、見た目の美しさは誰にでもわかるものだし、それは自然農法の野菜の大きな標準になっている。いつも言っているように自然農法の野菜には虫がつかないし、病気にも罹らない。そうならないのには、病気や虫害には原因があり、それらを改善していくことで、本当に信じられないような、ほれぼれする野菜ができる。全体に透明感があり、「品」を醸し出す。全てがそのような野菜かというと、そうではないが、この数少ない野菜から得た感動が、今でも私が自然農法を続ける大きな原動力となっている。

 

 

農法(How?)ではなく、生き方。

最近、無肥料、無農薬で作物をつくっていると言うと、「不耕起栽培ですか?」とよく聞かれる。私の場合は、耕すときもあれば、耕さないときもある。また、「“自然農”ですか? “自然農法”ですか?」と聞かれることもある。別に私は、どちらでもいいのだが、「自然農法」という名称は商標登録されていて、勝手には使えないらしく、このコラムのタイトル「自然農講座」のように、「自然農」と表記すると、「自然農は、不耕起栽培でなければいけない」と、別の自然農のグループから指摘される。

 なぜ、そんなに農法にこだわるのか、私にはよく分からない。以前、「自然栽培」と表示したときは、「自然とは何か? “自然”に対する定義がはっきりしていない。“自然的”とするべきだ」と、お役人から言われたこともある。実にややこしい。農法に関係なく、タイトルを「農に学ぶ。農に想う。」と、改めたいくらいだ。

 私にとって「農法」とは、人のための農法であって、農のための農法ではない。「人としての生きる姿を、農から学ぶ方法」とでも言ったらいいのか。

 悲しいことに現代人は、人としての生き方を、もはや人からは習えない時代になってしまった。もはや、「仁」や「徳」などと云う言葉や教えが語られなくなった時代、我々は、かなり初歩的な学びから、時間をかけて、復習しなければならない。

 

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