梅の声がきこえる
川崎市多摩区長沢。生田緑地に近い住宅街の中に、オアシスのような緑。近づくと、華やかで甘く、やさしい梅の香りに包まれます。「今年もよろしくお願いします」と丁寧な字で書かれた手書きの看板を過ぎると、岸井梅園の入口があります。年代物の大きな梅の木々が、訪れた人を暖かく迎え入れてくれます。
園内は、一緒に作業をする地域の人、梅を買いに来る親子連れや大学生など、様々な年代の方々が混じり合いながら談笑し、笑顔と活気に包まれていました。
農園主は岸井洋一(きしいひろかず)さん。約3,500平方メートルの土地で、先代の富蔵さんが開発したオリジナル品種の「とみぞう」、白加賀、十郎など8品種、約150本の梅の木を栽培しています。洋一さん曰く、「周辺に、この規模の梅園は他にないんじゃないかな」と。梅の木の手入れ、実の収穫、選別などの作業は、地域の人々と協力しながら行っています。
取材時は出荷の最盛期。梅の木には、ふっくらとした青梅が鈴なりになっています。その様子を、洋一さんは、「『とってください』と、梅の声がきこえるんだよ」と表現します。
岸井梅園の成り立ちは、約60年前に遡ります。1959年の伊勢湾台風により、当時の長沢地域は甚大な被害に遭いました。周囲は豊かな田園風景が広がっていましたが、台風で景色が一変。地域一帯が被害に遭い、住民は大きな苦労を背負いました。当時、野菜農家であった岸井家も、例外なく被害に遭い、野菜と土地が壊滅状態になりました。洋一さんの父富蔵さんが考え抜いた結果、毎年着実に実のなるものをつくるべく、土地を梅園として再生をする決意をし、小さな梅の苗木を植えました。洋一さんは、子どものころから梅の木の世話をし、木々と共に成長してきました。
「梅の声がきこえる」。それは、梅の木とともに歳月を生き、苦楽を共に歩んできたからこそ、洋一さんにだけきこえる声なのかもしれません。
梅園への思い
洋一さんは、幼少期に母親を亡くしています。深い悲しみに打ちひしがれながらも、家計を懸命に支える父親の背中を見ながら、ご自身も梅園などの家業を手伝い、勉学に励み、家族を支えました。この時の「負けるものか」という思いが、洋一さんを今も奮い立たせています。
梅園を継ぐ前は会社経営をしていた洋一さん。しかし、梅園とは決して離れませんでした。「ハードな仕事をした後に、休みを返上して梅の木に登ったら、木の上で眠っちゃってね。落っこちたみたいで、気がついたら病院のベッドの上だったよ」と当時を振り返ります。高齢になっても梅園を続ける父親の姿を見続けながら、洋一さんも梅園を継ぐ決意をし、現在に至ります。
梅園を守り続けるのは、先代や、地域、地域の人々への思いがあるからと言います。
多様な人々が混じり合う、地域の交流の場としての梅園
洋一さんは平瀬川長沢流域協議会の会長も務め、様々な地域活動も展開されています。梅園は地域に開放し、春には花見の場を提供、小学生への課外授業も行っています。梅園を地域の交流の場として開いている理由を尋ねてみました。
「今の時代、お隣さんの顔もわからないくらい、地域の交流がなくなっているでしょ。そうすると、災害の時とか、いざ何かがあったときに困ってしまう。知っていれば助け合えるでしょ。人はひとりじゃ生きていけないんだから。子どもだって、学校の勉強だけじゃなく、色んな人と話をして、人間性を学んでいく。年寄りだってひとりでいたら心身健康でいられない。色んな人と話をすることが大事。この梅園が、色んな人の交流の場所になったらいいなと思っている。自分も助けられているし、助け合わないとね」
仕事のみならず、子育てや生活全般にわたり、効率的、生産的であることが求められがちな現代社会。忙しい毎日の中で、地域との関係性は希薄になりがちです。しかし、地域内で多種多様な人々と交じり合い、様々な経験を共にするということは、生きる力を身につけ、豊かな人生を送るための、一つの大切な機会なのではないか。洋一さんのお話を聞きながら、改めてそう思いました。
洋一さんは、子どもたちへの思いについてこう続けます。
「小学生には、授業の最後にいじめは絶対だめだって伝えている。『みんないじめてないかー?』って聞くと、始めは小さい声で、『はーい』、なんていうんだけど、『それじゃぜんぜんダメだ!』って返す。すると今度は大きな声で『はーい!』と返してくる。いじめなんかしたり、見て見ぬフリしたらおじさんが怒りに行くからって言うんだよ。そういうやりとりがその後の子どもたちに生きてくると思うんだよね。授業を受けた子がね、中学生になっても、『こんにちはー』なんて声をかけてくれるんだよね。それが嬉しくてね」。洋一さんは顔をほころばせて話します。
梅園に来て、梅の木や土に触れ、色々な話をして帰る小学生は、どこか清々しい感じになって帰ると言います。地域の中に、親や先生以外にも自分を気にかけ、時には叱ってくれる大人がいる。その安心感は、これからを生き抜く子どもたちにとって、大切な心の土台になるのだと思います。
そして、洋一さんは笑顔でこうお話ししました。
「梅園で色んな人と話をさせてもらうのは楽しいね。楽しいってのは、生きていく上で本当に大事なことだよ。梅も食べて健康で、今日1日も楽しく、人生バラ色になりそうだね!」
洋一さんをはじめとする農園の方々の明るさと、優しさあふれる人々の手で、大切に守り育てられた梅の木は、苦しい時も、楽しい時も、この地域と、人々を見守ってきたのでしょう。岸井梅園での思い出は、梅の優しく豊かな味わいとともに、地域の人々や子ども達の心に刻まれ続けていくことと思います。
岸井梅園
住所:川崎市多摩区長沢2-8961
電話:044-977-6107
梅は梅園で直売するほか、電話でも注文を受けつける。梅の実は6月下旬ごろまで販売。そのほか、梅干し、梅エキスの販売も行っている。
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