夏休み。「歴史ガイドブック」を手に、小学生の娘と、こどもの国の戦跡を巡りました
現在の平和な日常を生きる子どもに、どうやって戦争を伝えよう。今年の春に、こどもの国で発行された「歴史ガイドブック」を手に、小学生の娘と、こどもの国の戦跡を巡りました。子どもにとって身近な場所を巡ることで、戦争についてより近い距離で考えを深め、一緒に平和を祈ることができました。

戦争をどう伝えてもらったか。そして、どう子どもに伝えようか。

小学生のとき、夏休みに田舎に帰ると、祖父が、戦時中に身に着けていたものを見せながら、戦争の話をしてくれました。黒ずんだボロ布で包まれた水筒を見たとき、そこから放たれる戦争の気配を感じ取り、子ども心にも、とても恐ろしく思ったことを覚えています。

 

横浜市青葉区にあるこどもの国の職員だった父からも、小さい頃、第二次大戦中は、こどもの国が弾薬を製造していた場所であったという話を聞きました。こどもの国に遊びに行くたびに、弾薬庫跡の大きな緑色の扉や、兵士の像を見ては、どことなく、戦争というものを感じ、時には思いをはせていたように思います。

 

振り返ると、私にとっては、戦争体験者の話を聞いたり、戦火を潜り抜けてきた遺跡や遺品と実際に対峙するとき、その記憶を受け取ることができるような感じがして、より近い距離で戦争について考えることができました。

 

私の長女は、今年小学1年生になりました。少しずつ、戦争の話を伝えていくべきだなと考えていました。同時に、何をどうやって伝えていくのがよいか、悩みももっていました。今、平和な日常生活を送ることができている、まだ幼い娘にとって、戦争の話は、恐らく自分事には感じにくく、話だけをしても、あまり伝わらないのかもしれないと。

 

私がかつて父から伝えてもらったように、子どもにとって身近な場所である、こどもの国の戦争の跡を巡り、戦争について一緒に考えてみることで、より近い距離で戦争を捉えてもらえるのではないかと思いました。

そこで、夏休みに、こどもの国の戦跡を子どもと一緒に巡ることにしました。

横浜市青葉区にあるこどもの国。こどもの健全育成のための施設で、雑木林をベースにした自然の中に、たくさんの子どもの遊び場が点在しています

こどもの国の「歴史ガイドブック」を手に、園内の戦跡を巡る

現在のこどもの国のある場所は、戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠(ほきゅうしょう)として、戦地に送る弾薬を保管・発送・製造していました。現在も、さまざまな戦争の跡を園内で見ることができます。

 

こどもの国でこの春発行されたばかりの「歴史ガイドブック」を手に、園内の戦跡を巡りました。歴史ガイドブックには、モデルコースと、戦跡の解説や関連する逸話などが掲載されています。

園内の戦跡の情報がほしいという多くのお客様の声に応え、「歴史ガイドブック」がまとめられ、2023年4月から販売が開始されました。園内の案内所で、一部200円で購入することができます

まず、子どもと一緒に、現在の園内の地図と、戦時中の地図を比べました。現在の地図が、子どもたちの遊び場や楽しい場所があふれているのに対し、戦時中の地図は、数多くの弾薬庫、防空壕、弾薬製造設備などで埋め尽くされていました。地図を見比べるだけでも、子どもにとっては驚くべきことだったようです。私自身も、この場所が、戦時中は全く違う景色であったことを改めて理解できました。

 

 

白百合の丘で、女学生たちの「平和の碑」にこめた祈りや、その背景について、娘と考える

歴史ガイドブックのモデルコースを元に、園内の戦跡を順に巡りました。

まず、こどもの国の正面入り口近くにある、「白百合の丘」という場所に行きました。ここは、戦時中、爆弾製造に携わっていた、女学生(現在の女子中学生や女子高校生にあたる)の休憩所があった場所で、白百合が美しく咲き乱れることから、この名がつけられたそうです。

白百合の丘の階段を登ると、平和の碑がある広場に出ます

園内にあるふれあい学び館には、女学生たちが当時過ごしていた様子が書かれていました。

 

女学生たちは、時に、弾薬製造の原料である硫黄で足の裏や手の甲など、体を黄色に染めながら、弾薬をつくっていました。体に染みついた黄色い色は、お風呂で何度こすり洗いしてもなかなか取れなかったとか。口の中も苦くなったため、作業終了後にふるまわれる一杯の甘い小さなコーヒーを楽しみにしていたそうです。実は、それは、製造中の化学薬品の影響を軽減するための、解毒剤入りの飲み物だったということです。女子学生たちがそれを知らずに過ごしていたと思うと、何ともやるせない思いがしました。

ふれあい学び館には、さまざまな戦時中の資料が展示されています。神奈川高等女学校の、学徒動員時14、15才の女学生たちの写真もありました

一方で、こんな心温まる逸話もありました。この休憩所では、女学生の労をねぎらい、一人の男性が、朝早くに白百合を摘んではプレゼントしてくれたそうです。女学生たちはその男性を「白百合の君」と呼び、憧れを抱いていたとか。緊迫した日々の中で、それは、どんなに胸踊る、楽しみなことだっただろうと思います。

 

白百合の丘には、平和の碑があります。そこには、「平和を祈る」と記されています。平和の碑は、かつてこの場所で過ごした、女学生たちにより、戦後建立されました。

 

平和の碑の裏側には、こう書かれています。

「1944年から45年にかけて、神奈川高等女学校の学生だった私たちは、国の命令で勉強をやめ、ここで砲弾を作る作業につきました。その砲弾が地球上のだれかを傷つけたのではないかと思うと、とても恐ろしい気持ちです。戦争を再び起こしてはならない、この思いを込めて、女学生休憩所のあった丘に平和の碑を建てました。平和な世界の中でこどもたちがのびのびと育ちますように」

白百合の丘を歩くと、一輪の美しいヤマユリが、私たちを迎えてくれました

白百合の丘では、娘とこんなことを話しました。

「学校に行かないで、爆弾をつくることになったらどう思う?」

「もし、自分のつくった爆弾で、だれかが死んじゃったってわかったら、どういう気持ちがするだろう?」

そして、戦時中の教育のこと、憎しみが憎しみを生むことについてや、赦すことについて、今も世界で起こっている内戦や戦争のことについてなど、いろいろな話ができました。

娘は、自分より少し年齢が上の、当時の女の子たちが体験した話や、その思いをなぞることで、より近い距離で戦争の話を捉えてみることができたように思います。

 

 

人が火薬とともに身を潜めたという防空壕の跡

次に、防空壕跡をまわりました。第二次世界大戦末期には3000人ほどの人々が働いていたというこの場所には、数多くの防空壕がありました。歴史ガイドブックの地図上に示されている、防空壕の個数は、150を超えていました。そのほとんどは、現在、植物が生い茂り、こどもの国のやさしい自然の風景へと変化しています。

 

今でも防空壕の入口が見られる場所を訪れました。ガイドブックには、防空壕の中の様子もイラストで解説されています。作業中に空襲警報が鳴ると、工場内の火薬を壕に入れ、続いて人が入っていったそうです。女学生たちも、時に火薬箱の横にしゃがんで過ごし、光が届かない壕の奥で、チョコレートの包み紙の匂いをかいだり、軍歌を歌ってしのいだそうです。年頃の女の子たちが真っ暗な穴の中で、火薬と共に過ごす気持ちはどんなものだったのだろうと想像すると、胸が痛くなりました。

防空壕の入口は、植物たちに取り囲まれ、ひっそりとありました

今もその姿を残す、緑の大きな扉の弾薬庫

弾薬庫は、火薬や弾薬を保管する倉庫で、当時、33カ所あったそうです。園内では、今でもその姿を確認することができます。緑色の大きな扉を、こどもの国を訪れた多くの方は、見たことがあるのではないでしょうか。以前は弾薬庫内に入れたそうですが、現在は老朽化により危険なため入ることはできません。ガイドブックにあるQRコードにアクセスすると、内部の記録映像を見ることができます。

 

弾薬庫の入口近くで、その映像を子どもと一緒に見ました。洞窟式の弾薬庫内部からは、ひんやり、しん、とした空気が漂ってきます。戦時中も内部は温度・湿度管理がされ、夏は涼しく気持ちが良かったため、学生たちは弾薬の上で昼寝をしていたそうです。今では危険で、とても考えられないことだと思いますが、戦時中の異常さは、何が危険で何がそうでないのか、人を麻痺させてしまうのかもしれません。

隣り合う弾薬庫のドアは内部でつながり、その中は、25mプールと同じくらいの広さ、学校の2階ほどの高さがあります

無名戦士の記念碑と第二トンネル

夏は子どもたちで賑わう、せせらぎの近く、多くの人が通る道の脇の、細い道に目を向けると、男の子の銅像があります。

小さい頃に、この像について父親から教えてもらいました。この像の目線の先には、2名の兵士の銅板製のレリーフと、その横には、「無名のスカウト戦士」という題で、あるアメリカ兵と日本兵の逸話が書かれています。戦時中に、重症で倒れていたアメリカ兵を、日本兵が助けたという話です。

 

私は、娘と一緒にこんなことを話しました。

「敵を必ずやっつけろと教え込まれていたり、自分の家族や大事な人が、その敵に傷つけられたりしていたら、その敵を助けられるかな?でも、その敵にも家族や大事な人がいるから、その敵を傷つけたら、またその憎しみが生まれて続いていくと思う。だから、どこかで相手をゆるさないと憎しみ合いは終わらない。ゆるすということは、すごく難しいことだと思うけど、そうしないと平和にはならないのかもしれない。この日本兵はすごく勇気のある人だと思う」。

重症を負って倒れていたアメリカ兵は、銃を持った日本兵が近づいてくるのを見て「殺される」と思った瞬間、気を失いました。アメリカ兵が目覚めると、傷には手当てがしてあり、日本兵からの「グッドラック」と書かれた白い紙が置いてあったといいます。二人はお互い、ボーイスカウトであったそうで、アメリカ兵が気を失う前にとっさに掲げた「三指の礼(ボーイスカウトの挨拶)」を見て、そのアメリカ兵を助けた、ということです

この像の近くに、第二トンネルがあります。トンネルの中は娘と私だけで他に人はおらず、しんと静まり返り、光が届かなくなる内部は暗くなりました。娘も私も、無言で歩いていました。戦争のことに長く思いを巡らせていたからか、トンネルの途中で、ふと、「このトンネルを抜けた景色が、火や煙で赤暗かったらどうしよう」という気持ちに襲われました。娘と手をつないで、静かに長いトンネルを歩きました。やっと見えてきた出口からは、夏の清んだ明るく青い空が見え、元気な子どもたちの声が聞こえてきました。私は心から安堵して、平和というものの尊さと、それへの感謝の気持ちを、強く感じました。

第二トンネルの出口からみた景色。平和な夏の景色が広がっています

「平和な世界の中でこどもたちがのびのびと育ちますように」

戦跡巡りから帰った後、こどもの国からお借りした、戦時中、この地で爆弾製造に携わっていたという、当時女学生であった酒井智恵子さんの戦争体験をまとめた書籍『田奈の森―学徒勤労動員の記』(酒井智恵子著、近代文藝社)を読みました。

 

戦時教育を受けた酒井さんは、当初、一人でも多くの敵を倒すのだと意気込み、爆弾製造に携わることを誇りに思って働いていたそうです。しかし、時が経ち、敵に追い詰められた沖縄の多くの少女たちが、手榴弾で自決したことを知ります。「私の送った手榴弾だったかもしれない」と思うと、あまりのやりきれなさで胸はふさがり涙があふれたといいます。そして、戦後、かつての学徒動員の仲間と、こどもの国を訪れ、平和な施設に生まれ変わったことを、みなさんで喜ばれたそうです。

 

「平和の碑に込められた祈りが、いつまでも、そして世界中に届きますように」。

取材当日にこどもの国に響く、こどもたちの笑い声と元気な姿を見て、私は子どもと一緒に、改めてそう強く祈りました。

Information

社会福祉法人こどもの国協会
住所:神奈川県横浜市青葉区奈良町700
電話:045-961-2111

 

「歴史ガイドブック」
https://www.kodomonokuni.org/event_topics/detail.html?id=193

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この記事を書いた人
濱田明日美ライター
子育てを通じ地域との関わりが増え、地域のヒト、モノ、コトとつながり豊かに暮らす心地よさを実感。ライターとして「食べることは生きること」をモットーに、それを構成する地域の環境、文化、人について中心に書き記しながら、よりよく豊かに生きることについて探究したいと考えている。
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