


戸塚駅と言えば、JR3路線と横浜市営地下鉄が乗り入れ、駅前には複数の大型商業施設がある横浜市内屈指のターミナル駅。かつて戸塚駅周辺に住んでいた私は、その利便性や都会的な環境を魅力に感じていました。だからこそ今回、戸塚駅からバスで行ける場所に取材に行く機会をいただいた時は、戸塚に田んぼ??と驚き、どんな場所なのかと心はずませて向かいました。
横浜市戸塚区東俣野町にある羽太喜久雄さんの田んぼは、戸塚駅からバスで約20分、そこから歩いて約15分ほどの多くの田畑が広がる場所にあり、ここは横浜市が指定する農業専用エリアの一つ「東俣野農業専用地区」です。

東俣野町の田んぼを臨む場所から。羽太さんの田んぼは34aの敷地で、酒米のほか自家用米ともち米を育てています

羽太喜久雄さん。今年で60歳を迎えるそう。稲作のほか畑と林業を営み、太平洋側では初の無花粉スギの栽培に取り組むなど、チャレンジ精神旺盛なお方です
酒米は、醸造過程での精米に耐えられる粒の大きさや割れにくさ、麹菌が繁殖しやすいデンプン質部分の「心白」を含むなど、食用米に求められる点とは異なる日本酒造りに必要な性質が求められます。日本酒の原料米の中でも醸造用に適したお米を「酒造好適米」と呼びます。
羽太さんが酒米作りに取り組まれるきっかけはなんだったのでしょうか。
「造林用の苗木生産も行なっていて、出荷で県内を回る機会に神奈川県内の蔵元に足を運んで日本酒を購入してきました。日本酒が好きなんですね。横浜魂の醸造元の熊澤酒造(茅ヶ崎市)にも、もちろん足を運んでいました」。
蔵元の中にはその周りの田んぼで酒米を育てている所もあり、その様子を見て酒米栽培への興味は元々お持ちだったそうです。
東俣野の田んぼ仲間の間で、熊澤酒造で使う酒米「五百万石」を生産するという話が出たのは2020年。1年目はすでに栽培していた「はるみ」と出穂の時期が重なっていたことを懸念し見送ったものの、2年目より栽培を開始。農協で開催される講習会を毎年受講される勉強家の羽太さんですが、酒米栽培に関する資料は食用米に比べてとても少なく、一つひとつ手探りで進められたそうです。
羽太さんのお話を聞いている時にとても印象的だったのが、稲作へ取り組まれる姿勢の緻密さでした。

写真は現在栽培している酒造好適米「雄町」。葉の一枚一枚をナンバリングし、どの時期に何番の葉が生えてきたかなど、様子をつぶさに観察し記録しているそうです

成長の様子を、稲を手に取り教えてくださいました。普段から現場に足を運び、稲を知る努力を惜しまないお姿が、丁寧な説明から垣間見えます
「五百万石」の生産者が徐々に増え、必要とされる量の酒米が確保できるようになってきたため、2023年からは横浜市内での栽培は初の試みとなる酒米「雄町」の栽培を始めた羽太さん。
「熊澤酒造の杜氏の方に、雄町がかつて“幻の酒米”と言われていたことや、現在も生産の9割以上が岡山県で、神奈川県では入手困難な酒米だと聞きました」。雄町は収穫時期の遅い晩生(おくて)の品種のため、台風の被害を受けやすい品種だそう。栽培が難しい品種だと羽太さんは感じたものの、その経験を通じて稲作の技術を向上させ、ほかの品種の栽培に役立てられると考えたそうです。
雄町を「野生味がある」と表現する羽太さんに栽培の様子を伺ったところ、成長すると稲の丈はなんと150cmほどにもなるそうです。
「肥料なしで、すでに草丈が80cmほどまで成長しています(7月末の取材時点)。周りの品種と成長のペースが違うので、雄町の田んぼだけ水管理のペースも異なり配慮が必要になります。刈り取り時にもコツが要りそうですね」。
栽培時の“なんとなく”を数値化するために、植物の健康度を葉緑素量で測れる「葉緑素計」も導入し、栽培の様子をブログに記録しているそうです。記録を続けていくことで、例年の栽培状況を比較できるようになっていくと話します。
「『五百万石』がすっきりとした味わいなのに対して、『雄町』は濃醇な味わい。“オマチスト”と呼ばれる日本酒ファンも多いそうです。無事収穫し、来年飲めるように努力したいです」とにこやかに話します。

羽太さんの田んぼの近くは境川が流れていて、川を挟んで向かいは藤沢市になります。水温や養分が安定した湧水が豊富で、鳥害はあるものの米作りには適した土地だそうです(写真撮影:松園智美)
「お米に毎日足音を聞かせるとおいしくなると言うように、田んぼには毎日足を運んでいます。田んぼはその時その時で変化するので、毎年1年生の気持ちで取り組んでいます。そしてそんな変化が楽しくもあるんです。
横浜のお米はおいしいですから、市民のみなさんにはぜひお米もお酒も召し上がっていただきたいですね」と羽太さんは穏やかに話してくれました。

取材後のメールでのやり取りで、羽太さんの息子さんの神前式で「横濱魂」が三三九度の盃のお酒になったと話していただき、「自らお米を生産することで得られた喜びだった」という言葉が印象的でした。写真は天青「横濱魂」。品薄で手に入らず残念に思っていたところ、羽太さんのご厚意で譲っていただきました。キリッと爽やかでしみじみと味わい深く、雄町で醸造する日本酒への興味も膨らみます……
取材を終えて、横浜市の地図を眺めてみると、東俣野町は私が幼い頃よく遊びに行った祖父母の家がある泉区にほど近いことに気づきました。祖父母の家の近くにも広い田んぼがあり、向かう車の中から稲穂が揺れるのを眺めていたことを思い出します。
遠くのどこかからではなく、その気になれば足を運べる距離で、私たちが口にするお米が育っている。お椀に盛られたご飯も、とっておきのお酒も、作った方の顔がわかるとその一口はより特別なものに感じられると思いました。
そんな“都市と農”がほど近い横浜の農業が、これからもっともっと横浜で暮らす私たちにとって身近なものになっていってほしい。羽太さんのお話を聞きながら、私は強く感じました。
(参考)
農林水産省「日本酒をめぐる状況」
https://www.maff.go.jp/j/seisaku_tokatu/kikaku/attach/pdf/sake-7.pdf
奈良県「奈良新聞掲載記事集 酒米の話」
https://www.pref.nara.jp/item/236645.htm
沢の鶴株式会社「日本酒の「酒造好適米」とは?麹米・掛米などのお米の役割」
https://www.sawanotsuru.co.jp/site/nihonshu-columm/knowledge/sake-rice/

天青「横濱魂」
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000001067.000013670.html
※2023年度分は完売店多数
▼羽太さんが栽培する「雄町」は熊澤酒造にて醸造予定です

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