(文と絵/梅原昭子)
ベルさんは1847年3月3日「耳の日」にスコットランドのエジンバラで生まれました。おじいさんが面白い人で、靴屋から転身して役者になり、のちに舞台上での発声法や朗読法を教える弁論術の先生になるんですね。その職を受け継いだお父さんも才能豊かな野心家で、弁論術のベストセラー本を出し確固たる地位を築きます。
一方、ベルさんのお母さんは幼い頃の病気が原因で耳が不自由でした。それでも補聴器の振動で音を聞き分けてピアノを弾いてしまうなど、芸術的センスに優れた内面の強い方で、細密画家でもありました。ベルさんも兄弟3人の中で耳が抜群によく、音楽の道へ進んだ方がよいと助言されるほどの才能があったとか。
そんなお母さんの存在もあってか、お父さんもベルさんも、スピーチの仕方の研究から、人の声がどうやって発生するのか? といった音声学や音響学の分野を追求しはじめます。やがてお父さんは、音を発するときの舌や咽喉、唇の位置と動きを記号や文字の組み合わせで表して、目で見て発声できるようにする「視話法」を編み出します。この視話法を、ベルさんは完璧にマスターして、知らない国の言葉でも正確に発音できました。また、視話法は何より聴覚障害者の教育に効果を発揮したそうで、図示されたように唇や筋肉を動かし、咽喉の震えを感じることで、耳が聞こえなくても適切な音が発声できるようになるのです。
ベルさんは16歳のころからロンドンで話し方の先生をしていましたが、兄弟を結核で亡くしたのち、父母とともにカナダへ移り住みます。アメリカの「ボストン聴覚・言語障害スクール」で父親の代理として視話法を教えたのが評判を呼ぶと、生涯、聴覚障害者の教師として生きることを決意しました。子ども時代のヘレン・ケラーさんと20歳のアン・サリバン先生との間をつないだのは、彼が40歳の年。その後友人として、また実の父親のように、彼女らと生涯親しく交流したことはよく知られています。
しかし、声の研究をする過程で、同時に電気にも興味をもつようになったベルさん。幸運なことに、当時のボストンは世界の知性が集まるところ。1872年、ベルさんが25歳の時、イギリスの科学者ティンダルさんの講演会があり、「光の波動説」を聞いてから、空気の振動である声の電送ができないだろうかという妄想が一気にふくらみ、周囲が体調を心配するほど研究に没頭し始めます。
音は、振動数によって高低を、振幅で大きさを、形状で音質や音色を表します。音と声とはまた少し違って、人の声には複数の振動数がまざっています。当時、音声を送信する機械の発明にしのぎを削っていた人は多かったのですが、人の声を送信しようと本気で考えたのはベルさんだけでした。
それから苦節3年、1875年の7月1日、実験室の2階で話すベルさんの声を、助手のワトソンさんは1階で聞き取りました。その結果、声という複雑な情報を電気的信号に変えるためには、一つの振動膜があればよいこと、微量な波状の誘導電流が起これば十分だったこと(これは受信機や送信機に巨大な電池がいらないことを示す)、その音を再現するのにも一本のリードがあれば良かったこと、など想像以上にシンプルな構造で伝わることが分かりました。
先生業と研究の両立に疲弊苦悩した末の発明ですから、すごいものです。この「調和式多重電信」の成功は、何よりもベルさんのこころをふるわせます。実際この年は私生活でも揺れが激しく、研究の支援者であるガーディナー・ハバート氏の娘で、教え子の1人でもあり聴覚に障がいがあるメイベルさんへの愛に気づき、婚約もしました。結婚は翌年まで我慢しましたベルさん。電話研究のかたわら、奥さんや家族とは膨大な手紙のやりとりをしています。
さて、研究の方は紆余曲折あって、翌年の2月14日。ようやく特許の申請を済ませたところ、面白いことにイライシャ・グレイさんという発明家も、偶然同じ日に電話の特許を申請したため、優先権争いが起こります。しかし声を伝えるしくみをよりよく理解し、数時間提出時間の早かったベルさんに軍配があがるのです。29歳の誕生日には審査官から公式に特許が認められ、グレイさん側も納得。1876年3月7日、ベルさんは晴れてアメリカ合衆国の電話の特許を取得したのでした。
といっても、これはまだまだ理論の段階にすぎず、実用に向けての改良はこれから。アメリカでは有名な「Mr. Watson come here. I want to see you.(ワトソン君、こっちに来てくれ、会いたい)」という会話が通じたのは3月10日です。コーヒーをこぼしたからとか、酸をこぼしたから、ワトソンさんを呼んだという説があるけれど、本当かどうかよく分かりません。それはともかく、この時点でベルさんは街中が電線で繋がり、離れた友人同士で会話ができる未来を直感したそうです。
6月25日には、米国の建国100年を祝う「フィラデルフィア百年祭」(いわゆる科学万博)での電話の公開デモンストレーションに成功。このときの聴衆の驚きっぷりはすごくて、送信側から「私の言ってることがわかりますか?」と問われると、選ばれた受信者が「わかります!!」と、もう興奮感激して声の主のもとに走って報告しに行ったとか。まるでコントのようですが、純粋でいいですね! おかげで、ベルさんの電話の噂は、その場にいた科学者たちを通じて世界に広まりました。
1877年にはいると、各地での講演会とデモンストレーションが新聞雑誌によって大きく取り上げられて、世間一般からの注目も高まります。送受話器の部品一つひとつについて、手探りで改良を積み重ね、この年の8月には「ベル電話会社」の電話リース数は600台にも達したそうです。実業界での電話をめぐる紛争はすさまじく、ベルさんは経営に向かないことを自覚して、のちに会社役員をやめていますが、会社は存続し、1885年にはAT&Tとなり、現在に続いています。
ところで、ボストンで視話法を習っていた生徒の中に、伊沢修二さんという日本人留学生がいました。彼と、同じ留学仲間だった金子堅太郎さんは、1877年1月、電話で会話した初の外国人でした。ちなみに伊沢さんは東京音楽学校(のちの東京芸術大学音楽学部)や東京聾唖学校(のちの筑波大学附属聴覚特別支援学校)の初代校長をつとめた方で、末の弟が吃音だったそうです。金子さんは海外で司法を学び、伊藤博文さんの側近として大日本帝国憲法や皇室典範の起草をした政治家、官僚です。
そんなこともあり、1877年には日本に電話機が持ち帰られ、1878年、のちの沖電気の創設者、沖牙太郎(おき きばたろう)さんによって、早くも国産第1号電話機が開発されました。東京?横浜間で官営の電話事業が始まったのは、1890年です。それから100年以上の月日が流れ、電話は1人1台が当たり前の時代になりました。携帯メールやスマホは聴覚障がい者を孤独から解放してくれていいね! と、ベルさんだったら大喜びしそうです。
電話事業のはじまった当初は、まず受話器をとる→呼び出しハンドルを回して電話局のベルをならす→電話交換手に通話先を伝え、配線をつなぎ変えてもらう→相手を呼び出すという方法がとられていて、遠くへかけるには、電話局から電話局へ、たくさんの交換手を経るので長時間待つ必要がありました。現在では自動化、デジタル化され「電話交換機」がその代わりを果たしています。全国約7000カ所の電話局のうち、電話交換機があるのは1600カ所。残りは電話線を集めるだけの場所で、そこから光ファイバーで交換機のある局までつなげて、交換機同士のネットワークをつくっています。
電話番号や声の情報は、すべて「0」と「1」の組み合わせの電気信号に変えて送られています。音の速さは本来1秒340mですが、電気信号に変えれば光と同じ1秒30万km、地球を7周半できる速さに。距離を感じないのはそのためですね(実際は、ちょっとスピードダウンするので1秒に20万kmくらい)。
受話器をあげるとスイッチが入り、最寄りの交換機が「通話準備OK」を意味するツーというダイヤルトーンを発信→電話番号の最初の5桁で電話局が判明→電話交換機同士のやり取りで相手までの回線を確保→相手先の交換機から、発信側と着信側の双方に呼び出し音をならすための電気が送られる→相手が受話器を取るとスイッチが入って「応答あり!」というメッセージが発信側に送られる→無事通話できる! ……のだそうです。分解してみるとなんだかえらく時間がかかりますが、やはりしくみを知ると、ありがたみも愛着も増します。
かつて、ベルさんは、ヘレン・ケラーの手を電柱にあてて、電線は生と死、戦争や財政、恐れと喜び、失敗と成功を歌いあげていて、空間の壁を突き破って世界中の心と心を触れ合わせているのだ、と説いたそうですよ。
それにしても、地下深く全国に張り巡らされた電話網をゆれうごく電子の粒と、全宇宙を飛び交う電磁波と……。琥珀の子って世界にあまねく存在しているんですね。日々「何か」を運ぶ、やすむことなき働き者でもあります。これからは、その土地土地で、このふしぎな子どもを可愛がり、育て、生かす時代でしょうか。無個性で均質で完璧な感じを目指すのもよいけれど、個性的な子がたくさんいた方がきっと楽しいだろうと想います。
それではまた!
次回最終回の予定です。
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