歩けばあちこちに直売所があり、新鮮な野菜がすぐに手に入る。「多く作りすぎちゃったから食べて」とお惣菜や野菜をおすそ分けしてくれるご近所さん。息子に「どこに行きたい?」と聞くと「熊野神社!田んぼ!」と目の前の風景のすべてが子どもの遊び場になる。市街地でありながら、昔ながらの田園風景が色濃く残る横浜市青葉区寺家町。私がこの地域に感じる大きな魅力は、美しい自然と人の営みが分離せずに共存しているところです。
週末ともなれば多くの人が散策に訪れる「寺家ふるさと村」。昭和62年、田園風景の保全や地域活性化を目的に横浜ふるさと村の事業として開村しました。ウェルカムセンター「四季の家」の目前に広がる田園風景、そこから北と東にそれぞれまとまった集落があります。
〈「寺家町」の由来〉
「寺家っていう地名の由来はなんだろう?」
寺家町の歴史探訪はそんな疑問がきっかけでした。
「寺家」という地名は全国各地に存在します。それらの地名の由来は寺院の所領となっていたり、寺院が存在していた地域であると言われています。ここ横浜市青葉区の寺家町にもかつて、都筑郡王禅寺村の王禅寺の末寺である、「東円寺」という新義真言宗のお寺がありました。大正11年に王禅寺(川崎市麻生区)に合併するまで、現在の町内会館のあたりに存在したのだそうです。この東円寺が寺家の地名と関連するかどうかは明らかにはなっていませんが、寺家村という地名は鎌倉時代中期以降の書物において、その名が登場します。明治6年、この東円寺内に寺家学舎が創設されました。その翌年、寺家・鴨志田・成合の三村を集め寺家学校となり、鴨志田村の南慶院に移転。のちに現在の鉄小学校へ合併されていきます。
〈中世から近世の寺家〉
かつて、この地には大曽根飛騨守という領主がいました。天正9年(1581)に、小田原北条氏が大曽根飛騨守に宛てた文書から「寺家•鴨志田」を支配していた人物であることが伺えます。北条氏の家臣の大部分が在地の武士でありながら、自らも耕作を行っていたように、大曽根氏も兵農分離しない武士でしたが、北条氏没落後は帰農し村の名主になってきたとされています。寺家町には現在でも大曽根姓が多く、そのためもあって地元の方はお互いを下の名前で呼び合う様子がよく見られ、コミュニティの濃さを感じるシーンでもあります。
森ノオトでも「カモジケ」エリアと表現することの多い、寺家町と鴨志田町ですが、古い史料にも単独ではなく「寺家村・鴨志田村」として併記されています。そんなカモジケが、かつて両村の境界線をめぐった裁許になったこともあったのだそうです。元禄15年(1702)に幕府評定所までのぼったこの論争は、村境をしっかり決め図面を作成することで落ち着いたのだとか。
明治22年、町村制の施行によって、都筑群中里村の一字となった寺家村。その頃には農業に加えて生糸業に携わる家が増加、大正時代には養蚕業、木炭製造も盛んだったのだそうです。
〈熊野神社〉
古くから村人の精神的拠り所だった「熊野神社」。師岡熊野神社(横浜市港北区)を分社して建てられ、『武蔵風土記』には寺家村熊野谷にあると記載されていますが、いつの時代かに現在の場所に移転されたと言われています。平成13年に不審火で全焼してしまう悲劇がありましたが、氏子たちが寄付を募るなど奔走し、翌年に再建が完了しました。
今のように町内の道路が舗装される以前の砂利道だった頃には、時代劇の撮影がよく行われ、かの『子連れ狼』の撮影地にもなったのだそう! 現在でもテレビや映画の撮影が行われ、最近だと昨秋放送された日テレドラマ『ラストコップ』も撮影されたそうです。
中里村が横浜市に編入されたのは昭和14年(1939)。その後は横浜市港北区、緑区の時代を経て、平成6年(1994)に青葉区寺家町になりました。現在では約140世帯が生活しています。
今回の取材では、ご近所の方々に参考書をお借りし、昔のお話を聞いてまわりました。「ここに昔、お寺があったんだって」。ついつい人に教えたくなる小ネタが増え、普段見ている風景もまた違ったものに映ります。一方で「この地域の歴史を語れる人が少なくなってきた」という声がとても印象的でした。おそらく他の地域でも同じ課題を抱えているのかもしれません。
地域の歴史を知ることは、未来のまちづくりにもきっと大きなヒントがあるのだと思います。地域を知って学ぶ歴史探訪、あなたの街にはどんな歴史がありますか?
参考文献
『寺家の歴史—大曽根家文書からみる村の暮らし−』(大曽根銈一著)
『寺家の自然』(横浜ふるさと村自然と文化の会)
『東円寺の記録 墓地の拡張を記念して』(大曽根銈一著)
『青葉区5年のあゆみ』(青葉区役所)
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