私がまちの花壇を意識するようになったのは、子育てを始めてからかもしれません。よちよち歩きを始めた長男の手を引きながらお散歩しているとき、長男の指差す先に咲くまちの花壇の花が、優しく揺れ、ときには蝶がひらひらと舞っていました。その年は、東日本大震災の後で、まちでもメディアでも復興ソング「花は咲く」(歌:花が咲くプロジェクト、作詞:岩井俊二、作曲:菅野よう子)がよく聴かれました。まちの花壇は、どことなく緊張が続いていた心に、ふと寄り添ってくれるように感じられました。
森ノオトのある横浜市青葉区では「自分の住む街 をもっと花と緑あふれる豊かで潤いのある街にしよう」という区の掲げるスローガンのもと様々な団体が地域の中で活動しています。昨年は都市緑化フェアが横浜で開かれ、それに合わせて、青葉区でも「フラワーネックレス青葉2017」という取り組みがありました。
私の住む青葉区鴨志田町に、「あおば花と緑のサポーター」のリーダーを務め、そのほかにも様々な地域活動をしている齋藤世二さんという方がいると、森ノオトの事務局長、梅原昭子さんに 聞き、ぜひお会いしたいと思いました。
7月のとある休日、齋藤さんがリーダーを務めるボランティア団体「ふれあい花壇の会」が、鴨志田地域ケアプラザの敷地内の花壇の手入れをするということで訪ねました。今年の夏は連日猛暑、午前10時というのに、すでに気温は30度を超えています。自転車で向かうと、遊歩道に面した鴨志田地域ケアプラザの花壇には、大人や子どもが集い、暑い日差しを浴びながら、額に汗して、作業をしていました。
子どもたちに「次は何をしたらいい?」と背中に飛びつかれながら聞かれている人が、齋藤さんでした。
花壇をつくる活動にこんな風に子どもの姿があることが新鮮な驚きでした。
「今日は、ここに雑草が生えないようにあと2、3枚シートを敷いて、その上からウッドチップを撒くところまでしたいね」と、齋藤さんと作業の確認をしているのは、新井裕之さんです。新井さんは横浜市に本社を持つ種苗会社、サカタのタネで働くこの道のプロです。
「私が参加した講習会にグリーンアドバイザーとして招かれていたのが新井さんでした。直感でね、新井さんにお願いしたいって、その場で声をかけさせてもらいました」と齋藤さん。軽やかに行動し、活動をより充実させていく齋藤さんの人柄が垣間見えました。
太陽が真上からギラギラと照りつける時刻には、すっかり雑草が抜かれた花壇に敷かれたシートの上に、ウッドチップが敷き詰められました。最年少参加者の幼稚園年中の本田瑞桔ちゃんが花の根元に丁寧に水をやり、この日の作業は終了しました。
「子どもたちは花壇づくりの色々なことをすぐに覚えて、それを暮らしの中に取り入れてくれる。一緒に作業していて嬉しいね」と、齋藤さんと新井さんは子どもたちの姿に目を細めます。
木陰で額の汗を拭き、この日の作業によって、改めてすっきりと美しくなった花壇を眺めながら涼む、年齢も職業もさまざまなボランティアのみなさんの雰囲気は、とても爽やかでした。その清々しさは、私たちが花壇を目にして癒される瞬間とはまた別の、花壇をつくった仲間だからこそ得られるもので、ボランティアという活動が与えるだけではなく、等しく、もしくはそれ以上に得るものの多い活動なのだということを教えられました。
一つの花壇づくりを通じて様々な絆を生み出す齋藤さんは、いったいどんな人なのか、後日改めて、インタビューをお願いしました。
齋藤さんは現在、主に青葉区役所前の花壇をつくる「あおば花と緑のサポーター」に参加し、今年で10年目。鴨志田の西団地の花壇をつくる「かもにしフラワーズ」を発足して9年目。鴨志田地域ケアプラザの花壇をつくる「ふれあい花壇の会」を発足して2年目になります。
こんなに花と関わるボランティアをしているので、退職前は花に関わる仕事をしていたのかと思いきや、仕事は機械メーカー関係の会社勤めだったそうです。
花や緑とは一見無縁の職業だった齋藤さんですが、勤めていた会社が支援を行っていた「公益財団法人日本花の会」の事務局長を務めていた時期がありました。
「日本花の会は、日本国内外における桜の名所づくりに関する調査や、計画策定、技術指導などを活動の主としています。その事務局長として全国を飛び回り、花に関わる人たちと出会いました。退職した人たちが花に関わる団体の中で多く活躍していることを知って、そういう第二の人生もあるのだなあと感心しました。とはいえ、退職してから自分が花や緑にたずさわりながら、こんなに地域の活動に関わることになるとは思っていなかったです」という齋藤さん。
定年退職後には、近所にある鴨志田地域ケアプラザのデイサービスセンターに勤めながら、介護福祉士の資格を取得したり、団地の自治会から民生委員を頼まれ、高齢者の見守りを中心に活動したり、地域の中で忙しく充実した日々を過ごしていました。
そんな折、齋藤さんには気にかかっている場所がありました。それは団地の花壇です。当時団地の花壇は管理組合が業者に委託してつくられていました。齋藤さんは、業者への委託はコストもかかるし、なにより、自分たちの住んでいる場所を自分たちの手で育てた花で飾り、住みよい環境に整えることをしたいと思ったそうです。そんな齋藤さんの呼びかけで集まった10名で平成20年に発足したのが「かもにしフラーズ」でした。
「大きな団地で、お互い知らない、会ったこともないという人も多い中で、こうして『花壇をつくろう』というきっかけで集うことができ、新しい関係を築いていけることも楽しみです」(齋藤さん)
団地内の花壇をつくりながら、齋藤さんにはもう一箇所気がかりな場所がありました。それは団地沿いの歩道と団地の間、雑草が生い茂る場所です。約35年前、団地が出来た当初はツツジなどが植えられていたその場所は、空き缶が捨てられていたり雑草が茂っていたりしていました。
「今では誰の目にも止まらなくなり、荒れていく場所が花壇になったら、ここを見る人の気持ちにも潤いが出たり、よりよい環境になるだろうな……」そう思いながらついに、「かもにしフラワーズ」の活動が4年目に入ったとき、齋藤さんは決意を固めます。
そして、団地の管理組合が発足した「花と緑を育む会」と協力しあい、よこはま緑の推進団体連絡協議会による「花薫るまちかど花壇づくり助成事業」から助成を得て、それを活動資金として花壇づくりに取り組み始めました。
目指したのは、宿根草や多年草を中心にして、維持・管理作業をできるだけ少なくし、四季折々に花が咲く花壇です。
1年目はツツジ等を抜根、移植し、その後に腐葉土や培養土などを投入して徹底的な土づくりを、2、3年目には季節ごとの花木を選んで植えてゆき、現在では約30種類の花が植えられています。以来 続いている「かもにしフラワーズ」。最初に公道沿いの雑草地を花壇として生まれ変わらせたとき、道行く地域の人に「見違えるほど綺麗な場所になりましたね」「素敵な花壇ですね」と笑顔で声をかけてもらったときの喜びは、今でもこの活動を続ける原点になっているそうです。
齋藤さんたちの活動が花壇を通して、世代を越えて実っていく様子がお話を聞いていて伝わってきました。 思いを種に人が動き、また人を動かしていくという明るい連鎖が団地やまちをつくっている様子に、自分にもなにか出来ることがありそうな、自分の住む地域にも多くの可能性や未来がまだ息を潜めて待っているような気がしました。
その思いの種を最初に蒔き、いくつものボランティア団体を継続させている齋藤さんに、ボランティア団体存続の秘訣を聞いてみました。
「ボランティアは仕事という括(くく)りでは出会えなかった人たちと、新たな出会いの中で、「やってみたいな」という真心を持ち寄ってつくりあげていくものです。僕はリーダーだからといって何か特別に出来るわけではありません。ただ、集まってくれた人たちがそれぞれに、この団体のなかで輝ける場所をつくりたいと思っています。僕が出来ることは、人と人のつながりを大切に、「仲良く、楽しみながらやっていこう!」 という雰囲気づくりくらいです」(齋藤さん)
インタビューの最後に「私はね、忘れられない言葉があります。あるとき出会った人が言っていた『今は街角から井戸が消えて、井戸端会議をするまちの人たちの姿もなくなってしまいましたね。でもこれからは私たちがつくる花壇の周りで、花端会議(はなばたかいぎ)をしている人たちを見かけられるまちにしたいですね』という言葉です。『花端会議』ができるまちが、以来、私の目標になりました」と齋藤さんは話してくれました。
何気ない暮らしの中で、道端の花壇を見ると、心がふと地に降りてくるようです。そしてまた、その花壇の傍で、地域の人たちの会話や笑顔の花が咲いたら……、齋藤さんから聞いた「花端会議」という言葉には、明るいまちの未来が思い浮かびます。
齋藤さんたちがつくっているのは「まちの花壇」にとどまらず、「まち」そのものなのだと思いました。
インタビューが終わると齋藤さんは「今日はこの後、団地の『魅力の会』(団地の存続のために、どのような魅力的な団地をつくっていくかを考える会)の集まりがあります」と、夏の日差しの中、軽やかに次の集まりへと向かって行きました。
【この記事は、青葉区とNPO法人森ノオトが協働でおこなう「フラワーダイアログあおば 〜花と緑の風土づくり事業〜」の一環で作成しました】
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