東急田園都市線市が尾駅から桐蔭学園行きのバスに乗り、「下鉄黒須田口」の停留所で下車する。ここが鉄町への東側の玄関口。時は8月末、相変わらずの猛暑日、まずは熱中症対策の飲みものを調達するため停留所前のセブンイレブンに入る。このお店、かつては井上商店(イノウエフード)というスーパー。当初は農具や地下足袋、お酒などを販売していたそうだ。大正15年から営業されているというから、すでに卒寿(90歳)超え。地元の人たちは、コンビニになった今でも「イノウエ」と親しみを込めて呼ぶ。
入口横に「鉄町」のラベルを付けた日本酒が並んでいた。鉄町に酒蔵があるわけがない。訊けば、茨城県水戸市の蔵元・吉久保酒造が醸造元だという。調べてみると、なんと創業は寛政二年(1790年)。あの喜多川歌麿が数々の美人画を世に送り出し、「鬼平」こと長谷川平蔵がバッタバッタと盗賊を懲らしめていた江戸時代のど真ん中である。
江戸時代、鉄町は上、中、下の三つの村に分かれていた。バス停にあるように、イノウエのある辺りが下鉄(しもくろがね)村。鶴見川の上流に向かって、中鉄村、上鉄村と続く。それを貫く旧道が横浜上麻生道(バス通り)だ。日野往還と呼ばれたこの道は、八王子方面から横浜へ生糸を運ぶ「絹の道」でもあった。
こうした旧い街道を100倍楽しむコツは、頭と心をタイムスリップさせること。それが高丸流。そうすると、生糸を背負って砂利道を行き来する商人たちの姿が道の向こうに見えてくる。一攫千金を狙い、横浜の外国人居留地目指して黙々と歩く男たち。おや? その向こうに突然の砂埃。駆けてくる栗毛の馬。馬上には黒い洋式軍服に身を包んだ総髪のイケメンの姿。おお、誰あろう! 新選組副長・土方歳三ではないか! 援軍を要請するため本隊と別れて横浜へ向かった……という戊辰戦争の史実に基づいた想像。いやいや、妄想か……。ジリジリした太陽の熱で想像……いや、妄想が暴走しはじめたようだ。さっき買ったペットボトルのお茶で頭を冷やす。
鉄町を訪れた有名人といえば、言わずと知れた作家・佐藤春夫である。こちらは妄想ではなく事実。「イノウエ」から歩くことおよそ400m、「中里学園入口」交差点の信号横に、その足跡を記す「田園の憂鬱由縁の地」と刻まれた文学碑が立っている。文学碑のところにあった茅葺き屋根の家に移り住み、そこでの暮らしを主人公の視点で書いたのが『田園の憂鬱』である。
「それはどこかに古代希臘(ギリシャ)の彫刻にあるといはれてゐる沈静な、活き活きとした美をゆつたりとたたえていた。それは気高い愛嬌のある微笑をもつた女の口の端にも似ていた」。鉄村から鶴見川の対岸、現在の「みたけ台」の丘を眺めた時の描写である。このような幻想的で詩的な表現が大正という時代にマッチしていたのであろう。大正7年に本作が発表されると、佐藤は一躍、新進作家の地位を確立。文芸評論から童話、戯曲など、多岐にわたる活動で晩年は門弟3000人といわれる文壇の大御所へと昇りつめた。
正直、私はこの作品が好きではない。主人公の神経質でヒステリックな行動、田園で暮らす人々を見下したような描写が実に不快で、仕事でなければ途中で放り投げていただろう。
投げなくて良かった。全集の中に『田園の憂鬱』の二カ月後に出した、スピンオフともいえる小説が入っていた。佐藤夫妻の面倒をみた地元の女性の半生を描いた『お絹とその兄弟』というその作品は、同じ人が書いたとは思えないほど感動する。ラストは思わず涙ぐんでしまった。さらに、彼が70歳を過ぎた時に出した自伝『詩文半生記』も読んだ。この土地にやってきた本当の理由を吐露しているのだが、その理由のチャラさに呆れながらも、なぜか笑ってしまった。どうやら、佐藤は『…憂鬱』の中の主人公とは別人格の人間のようだ。この二冊、鉄村だけでなく当時の市尾村の様子も描かれている。それを書いていると終わらないので、興味のある方は私の連載記事「地名推理ファイル・絹の道を往く 探訪編(鉄町Vol.4)」をお読みいただきたい。
http://www.hirotarian.ne.jp/backno/2503-rekisi.html
とにかく、内容が不快でも動機が不純でも彼が小説の題材にこの地(都筑郡中里村)を選んでくれたおかげで、100年前の情景や人々の生活を知ることができた。そのことに感謝したい。
文学碑から100mほど進むと「横浜市くろがね青少年野外活動センター」の看板が見えてくる。ここはかつて鉄小学校があった場所。小さな駐車場横の階段を上っていくと当時の正門がそのまま残っている。桜の木に覆われたその一画に立っていると、ランドセルを背負って通学したあの頃を思い出す。
明治6年に開校した鉄小学校は横浜市の中で最も古い学校のひとつ。開校した当初、校舎は道路に面した場所にあったが、大正時代には上のグランドの場所、昭和になると、さらに上の高台へと児童の増加に伴い二度移転した。横浜上麻生道路の南、田園に囲まれた現在の場所に移ったのは昭和49年。以降、学校跡地に宿泊施設、キャンプ広場、アスレチックなどを設置、横浜市の青少年の健全育成を図るための野外活動施設となっている。
佐藤春夫の住んだ家は、野外活動センターの斜め向かい、文学碑から200mほど離れた場所に移築され、昭和48年まで坂田さんの家の母屋として使われていた。その坂田さん、不動産の仕事のかたわら「ぶどう園」を経営されている。言わずと知れた横浜ブランド「浜ぶどう」だ。えっ、「浜なし」は知っているが「浜ぶどう」は知らない? 横浜ブランドは他にも「浜かき」「浜りんご」「浜うめ」があり、最近はキウイフルーツやミカン、ブルーベリーまで仲間に加わっているとか……。ともあれ、「浜ぶどう」は「浜なし」と並ぶ二大ブランド。旬のこの時期を逃す手はない。もぎたてを買って帰ることにした。
ぶどう園は、横浜総合病院へ抜ける信号の手前の路地を左に入ったところにある。その途中にある大きな白いテントは「花国」という地元では知られた花屋さん。といっても、マルエツや三和といったお馴染みのスーパーにパッケージフラワー(花束)を卸している会社だ。
知り合いが働いているので、ぶどうを買った帰りに覗いてみた。じつは、ここだけの話。スーパーで売れ残った商品をこちらで販売している。しかも、すべて50円。当初は無料だったが、口コミで噂が広がり、収拾がつかなくなったため値段を付けることになったのだとか。せっかくなので墓参用に二束購入した。それでも100円。通常の十分の一だ。
「あっ!」花国を出たところで散策の途中であることを思い出した。残り半分。この暑さの中、ぶどうと花束を抱えての散策は無理。仕方ない。一旦帰宅して後日出直すとしよう。「そうだ!」野外活動センター前のバス停に向かう足が止まった。「どうせ帰るなら、浜なしも……」踵を返し直売所へ向かう足取りは、なぜか軽いのであった。
次回は、さらに濃厚でミステリアスな鉄町の魅力をご紹介します。乞うご期待!
歴史探偵・高丸(宮澤高広)
地域新聞の名物編集長として長年、「地名推理ファイル」など青葉区や地域の歴史を紐解く連載を続けてきた。歴史講座つきのまち歩きツアー「わがまち探訪」は常に満員御礼、中高年のアイドルである。「あおば紙芝居一座」では物語をつくり、語り部として子どもたちに地域の歴史を伝えている。
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