〜春満喫、歴史満載〜 青葉区恩田町「薬師堂」界隈を歩く
コロナ禍で、地元を歩く機会が増えた方も多いのではないでしょうか。歩いてみると、ここ横浜市青葉区にも、ふとしたところに社があったり、古木があったり。変化の激しい街の中で今も残る寺社の由緒、古木が見つめてきた風景など、知ってみると見慣れた街の味わいもまた一つ深くなるかもしれません。この度、定年後に地元青葉区界隈を歩き、その土地の歴史や地形を探索し、『新編武蔵風土記稿』や郷土資料などを調べ、まとめている今村みゑ子さん(私の母)の解説の元、 青葉区恩田町にある薬師堂周辺を散策しました。

東急こどもの国線と並行して流れる奈良川、そしてその川に沿って通るこどもの国通りを車で通ると、道の傍、少し奥まったところに赤い屋根に銀色の擬宝珠(ぎぼうし)が見えます。今回の散策では、東急こどもの国線の「薬師堂」を中心に歴史や地形の変化を今村みゑ子さんの解説を聞きながら、 森ノオト編集部の仲間らと巡ります。

 

  

330日午前10時、恩田駅前より散策をスタートしました。恩田駅のプラットホーム前の桜はまさに満開です。まずは線路に並行して流れる奈良川へ向かいました。

 

 

〜奈良川の親水広場

徳恩寺のふもとにある 徳恩寺橋を渡る前に、奈良川とこどもの国線の間にある遊歩道を南へ少し歩くと手入れの行き届いた花壇のある「親水広場」へ出ます。川辺に立って水面をのぞくと小さな魚の群れが見えます。

この親水広場からはこどもの国線の「うしでんしゃ」「ひつじでんしゃ」(それぞれの模様で車両がラッピングされている)が間近で見られたり、四季折々の可愛らしい花壇や、見事な紫陽花並木も楽しめる。駅からは平坦な道で来られるので、子ども連れにもオススメの広場

 

 

〜火の見櫓のある風景〜

親水広場から川の向こうに薬師堂と、その手前には道路脇に火の見櫓(やぐら)が見えます。火の見櫓の元には「青葉消防団第三分団第4班」の器具置場があります。

この火の見櫓をきっかけにみゑ子さんが青葉区内の火の見櫓を巡った実感として、「地域の消防団の器具置場はたいてい、神社、寺、自治会館などがある場所にあり、そこに火の見櫓もあることが多い」そうです。その地域のコミュニティーの中心に、その地域を守るために建てられた火の見櫓、それは土地の人の思いの象徴としてもぜひ残ってほしいと思いました

火の見櫓を見るとき、2脚か4脚か(ここは2脚)、屋根の形(ここの屋根は丸型で可愛らしい)、半鐘、梯子、物見やその欄干などを観察すると、それぞれに個性があって面白いそうです。みゑ子さんの一押しは、美しが丘西(保木)の薬師堂境内にある火の見櫓です。4脚で、屋根は八角形、蒴手(わらびで)の装飾が施されており、白くて美しいそうです。

 

みゑ子さんは「親水広場の川辺で遊ぶ子どもたちがいて、その向こうに森の緑と薬師堂の赤い屋根、そして火の見櫓の建つ風景を眺めていると、かつての恩田村の風景が蘇ります。そしてそれは、日本のどこにでもあった懐かしい原風景ですね。川は危ないから近づかないで、と言うのではなく、こういった水に親しむ場所を作ることで、川を知り、自然を保護していく心を育てている行政の取り組みの工夫を感じます」と話します。

道を少し戻り徳恩寺橋を渡って、先ほどから川向こうに見えていた薬師堂へ向かいます。

 

医王寺の面影を唯一留める「薬師堂」

この薬師堂は元々、医王寺(室町時代後期に創建された徳恩寺の末寺)のお堂でした。明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)によって廃寺となり、本尊の薬師如来を安置した薬師堂のみがこうして残っています。現在は徳恩寺が飛び地仏堂として管理しているそうです。

散策ツアーの後日、雨上がりの夕暮れ、晴れ渡る空を見て、薬師堂をもう一度撮影したいと思い訪ねると、境内の手入れをしている方々がいました。森年成さんと息子さんで、徳恩寺と共にこの薬師堂を守っている地元の約60世帯で作られている「奉賛会」のメンバーだそうです。 寅薬師に合わせて12年に一度のご開帳が始まるので、手入れをしていると教えてくれました。薬師堂は、こんな風に地元の方々によって守られてきたことを、親子で作業をする森さんとの出会いによって知ることができました。

お堂の中は残念ながら普段は見えません。中には本尊である薬師如来立像が内陣の厨子の中の光背の前に安置されており、両脇には脇侍(きょうじ)の日光菩薩・月光菩薩、眷属(けんぞく)の十二神将も安置されているそうです。このお堂の中に、さり気なくそのような小さな宇宙があったとは、驚きと昔の人の日常の中にある庶民の信仰の深さに感動します。

 

この薬師如来像は2021年、横浜歴史博物館の特別展「横浜の仏像 しられざるみほとけたち」に出展されました。みゑ子さんはその特別展へ足を運んだ際に購入した薬師如来像の葉書を見せてくれました。黄金に輝き、なんとも優しいお顔に、施無畏印(せむいいん)「=恐れの心を取り去って救います」の掌が暖かくこちらに向けられています。

 

 

〜境内の石造物群を読み解く

境内向かって左側には10基の石造物が並んでいます。石造物群は、よく神社の境内には見かける光景ではありますが、考えてみると、なぜここに、作られた時代も雰囲気も異なった石造物が並んでいるのでしょうか。

10基の中で3基は馬頭観世音。当時この地の人々が家畜とともに、暮らし、それらを大事にしていたことが偲ばれる。 「加藤清正」を祀った石造物(珍しいそう)や小さいながらに存在感のある不動明王など。それぞれに恩田村の人が建てたことが記されており、その思いはいかなるものだったのだろう(撮影:梶田亜由美)

「土地区画整理事業などにより、立ち退くことになった石造物はその地域の寺社の境内に安置されることが多いです。寺社の境内は石造物等の『安住の地』となっています。そのため、ここでは供養塔から庚申塔、阿弥陀如来像などとてもバラエティーに富んだ、主に江戸時代の石造物が一堂に見られます。境内の奥には鳥居が二つありますね。ここはお寺ですが、立ち退かなくてはならなくなった神社や祠がこの境内に移設されています。境内全体が宗教的空間になっています」とみゑ子さん。

その一つひとつが何の石造物で、そこに何が書かれているのか、以下、みゑ子さんが読み解いたものです。

 

写真の向かって左から

①「馬頭観世音」文化2年(1805

②「清正公太神(きよまさこうたいじん)」明治4年(1871/恩田村願主

③「馬頭観世音」 明治30年(1897/ 建立者名

④「馬頭観世音菩薩(文字)」昭和111935/山月 青黒/施主名

⑤「庚申塔(こうしんとう)青面金剛(しょうめんこんごう)」寛政10年(1798/「武州都筑郡恩田村」/10名の氏名

⑥「供養塔」寛文11年(1671/為法印権大僧都尊継也/當寺中興/菩提

*これのみ元からあったものか

⑦「地蔵菩薩立像」寛政12年(1800

⑧「阿弥陀如来立像」貞享5年(1688/念佛衆/武刕都筑郡恩田村

*刕=州(しゅう)

⑨「不動明王坐像」弘化4年(1847/下恩田村 願主3名の氏名

⑩「庚申塔 青面金剛」宝暦年(1798/天下泰平国土安全/武刕都筑郡上恩田村/12名の氏名

 

庚申信仰とは十干十二支の一つ庚申(かのえさる)の日の禁忌を中心とする信仰。中国の道教の説で、庚申の夜、睡眠中に体内の三尸虫(さんしんちゅう)が逃げ出してその人の罪を天帝に告げるといい、虫が逃げぬよう徹夜する風習がありました。この守庚申の行事が日本に伝わり、のちに民間信仰となり、「かのえさる」から、三猿の信仰とも結びついて、悪いことは「見ざる聞かざる言わざる」で行いを慎むという意味がある。人々が庚申講を作って集まり、青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)を本尊として豊作福運を祈った。庚申塔は60年に一度巡る庚申の年に築かれたものです

中でも、二つの庚申塔(⑤と⑩)は見比べることで違いや共通点が発見できて興味深かったです。⑤の青面金剛像は中央の手に剣と教化される者の頭を握った「剣人型」です。向かって左の瑞雲の中に日、右の瑞雲の中に月、上右手に三叉戟(さんさげき)、下右手に矢、上左手に法輪、下左手に弓、足に邪鬼を踏み、台座に三猿が刻まれています。⑩の青面金剛像の⑤との違いは、中央の手が合掌している「合掌型」であることや、頭上に蛇を載せていたり、両脇に二鶏が刻まれているところなどです。

 

庚申塔は江戸時代の庶民の間に広まった信仰の一つだそうです。三猿は日光の修学旅行でじっくりと見たきりでしたが、こんなに身近な石造物に刻まれ、庶民の暮らしの中にあることを知りました。生き生きとした造形の細部を見ると、石工(いしく)と、村人信仰の温もりを感じます。

 

 

 

横浜市の名木古木指定、境内のムクロジ

境内には大きなムクロジの木があります。ムクロジの実といえば、羽子板の羽子になり、打つと軽やかな音のする黒々とした滑らかな手触りです。このムクロジは横浜市の「名木古木」に指定されています。

ムクロジというと、私は青葉区みたけ台にある「こどもの杜」のムクロジを思い出すと話すと、「なぜ、あの場所にあんな立派なムクロジがあるのか、そしてなぜ「こどもの杜」の「もり」の字は「杜」なのかも、実は由来がありますよ」とみゑ子さん。このお話には続きがありますが、長くなるので、またの機会にぜひご紹介したいと思います

 

みゑ子さんは地元を散策する中で、いくつかのテーマに出会っていくようです。その一つにこの「名木古木指定」があります。横浜市の名木古木保存事業は古くからの町の象徴として親しまれ、故事来歴などのある樹木を指定することで、潤いのある市民生活の確保と、都市の美観風致を維持するために、昭和48年度からスタートしました。令和381日の時点で1046本と9群の木が「名木古木」として指定されています。

 

みゑ子さんは、地元の散策を始めて、こういった「名木古木指定」や「源流の森保村地区」、「横浜みどりアップ計画」「緑地保存地区」「防災協力農地」等々の立札があちらこちらにあることに気付くようになりました。横浜市の行政が取り組んでいる自然保護の地道な活動の意義を深く感じているそうです。

境内にある「山王社」は足利街道沿いにあった三皇宮から移設されたもの。境内の花桃も満開で、紅白二色の可愛らしい八重の花が一本の木にたっぷりと咲いていました。「源平」という品種だそうです

一行は、薬師堂を出て、裏山の山腹にある足利街道へ向かいます。薬師堂を出ると、こども国通りの東側に奈良川の跡があります。

 

 

奈良川〜河川の改修の軌跡を見る〜

2004年に廣田新聞店から販売地域に配布されたこの地域の地図によると、恩田駅前を今流れている奈良川は、並行して通るこどもの国通りの薬師堂側を流れています。これは奈良川の河川改修により流れが変わったためです。薬師堂から少し歩くとコンクリートで埋められた窪地に「井戸久保橋」と銘板が残る欄干が見つけられます。

欄干は一見ガードレールにも見えるので、何気なく通り過ぎてしまいそうですが、ぜひ足を止めて白い柵の向こうを眺めてほしいです。その先にもう一本、民家に続くかつての橋が見えます。河川跡の両側の桜の木は、窪地に向かって枝が伸びています。ふと、今は水なきこの場所に桜の花びらがひらひらと散り、帯のように川面を流れるのが見えたようでした。二度と見ることのできない風景というのが一体いくつあるのでしょう(撮影:梶田亜由美)

「初めてこの旧河川の跡に気が付いた時は、もう少し深く跡が残っていたように記憶していますが、今来てみるとはコンクリートでだいぶ埋まっていますね。日々、目の前でこうして景色が変わっていくことを実感しますね」とみゑ子さん。 だからこそ、今を言葉として書き留める、いつか記憶を辿れるように、記録するということは必要なのだと思いました。

 

〜山腹に今も残る古道「足利街道」を歩く

さて、井戸久保橋を渡り、細い坂道を少し登ると山の中腹を南北に延びる道に突き当たります。いくつかの郷土資料によるとこの道は「足利街道」と呼ばれていた古道のようです。道の突き当たりは今は空き地となっていますが、ここには「三皇宮様」という地元の旧家の祖先をお祭りした神社があったそうです。また、その旧家は屋号で「源氏山」と呼ばれていました。

足利街道あたりの「げんじやま」という屋号については、私自身も以前、徳恩寺の客殿に展示されていた写真の中に見た記憶がありました。「昭和44年6月8日」に撮影された写真には「『区画整理事業前の恩田町・里山風景』先祖から受け継いだ田地田畑を耕し、先祖から受け継いだ屋号を呼び、あい扶けあいながら村落共同体は、自然の恵みをエネルギーとしていました」という文が添えられています

 

三皇宮跡を左に見ながら進むと、黄蝶の舞う畑が右手に広がり、無人の野菜直売所があったり、遠く長津田の方まで見渡せたりと気持ちの良い古道が続きます。先へ行くと左側に「白山谷戸」へ出る峠道があるということです。峠道や白山谷戸にある白山神社も気になりながら、今回は手前で右側の下り坂へ曲がり、坂の傍の小道から小さな社を通り薬師堂へ戻ってきました。

 

傍にある社。由来はわかりませんが、社の横に植えられている椿の大きさを見ると随分前からそこにあったと思われます

さて、薬師堂の周りをのんびりとぐるり一周して戻ると時間は、11時半でした。今回の散策はこれにて御開きとなりました。とはいえ、境内の見事な枝ぶりの花桃は満開、お堂もすっかり身近に感じられ、ムクロジの実を拾ったり、花の写真を撮ったりと、各々散策の余韻を楽しみました。

 

薬師堂を中心として半径120メートルほどの場所を巡る中にも、田畑や家畜とともに暮らしてきたかつての村の人たちの活き活きとした信仰、そして現代でも受け継がれ、守られているものがあることを深く知る歴史散歩となりました。

 

街の中には何気なく古木や寺社がありますが、開発が進んだこの街においてそれは、偶然残されているのではなくそれを守ろうとする人の意志があってこそ残っているものだと知りました。一度失ったらもう二度と戻せない風景ばかりです。この先も、今残っているこの由緒ある寺社や古木とともに、街づくりがなされていくことを願わずにはいられません。

 

定年退職を迎え、教壇を去ってから8年、久しぶりに人に解説するので実はドキドキしていたという母(左から2番目)。会社を退職後に森ノオトライターとなった富岡仁美さん、今回の散策を地図にしてくれた大塚喜子ちゃん、森ノオト編集長のあゆみちゃんと、大好きな地元の歴史を知りながら美しい春の景色の中を歩くひと時は記憶に残ります

「何かを決めて歩くというより、歩いていると色々なものに出会うので、そこで見たものを調べています。先入観を持たずに歩くと、より多くの発見があるように思います」というみゑ子さんの新たな探索の成果を、またどこかで分かち合うことができたらと思います。

 

マップの作成は、この日の散策もご一緒したグラフィックデザイナーの大塚喜子ちゃん。「恩田探訪がとっても楽しかったので、みなさんぜひ散策してみてくださいね!という思いを込めて描きました」とコメントを添えてくれました

Information

武相寅歳薬師如来霊場 会により、令和449日(土)~58日(日)秘仏薬師如来の御開扉をするそうです。横浜市、大和市、町田市にわたる25の札所の12年に一度、寅年の春だけの御開帳だそうです。


Profile

今村みゑ子

1948年生まれ 静岡県出身 横浜市青葉区在住

人文科学博士 中世日本文学専攻 東京工芸大学名誉教授

主著『鴨長明とその周辺』和泉書院、2008

『散歩と旅の記』20181月、『散歩と旅の記(二)』20195月、『散歩と旅の記(三)』20203月、『散歩と旅の記(四)』20212月、『散歩と旅の記(五)』20222

(『散歩と旅の記』は横浜市立山内図書館の郷土資料コーナーに置かれる予定です。)

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この記事を書いた人
南部聡子ライター
富士山麓、朝霧高原で生まれ、横浜市青葉区で育つ。劇場と古典文学に憧れ、役者と高校教師の二足の草鞋を経て、高校生の感性に痺れ教師に。地域に根ざして暮らす楽しさ、四季折々の寺家のふるさと村の風景を子どもと歩く時間に魅了されている。森ノオト屈指の書き手で、精力的に取材を展開。
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