琥珀の子 電気のおはなし第6話
これまで5回に渡り、「琥珀の子」(電気)の正体を追って広く世界を旅してきましたが、今回は、懐かしくて新しい、ふるさと日本を訪ねます。7月というと海や山のレジャーを想う人も多いかと思いますが、電気関連の研究と発明の舞台は文明開花の嵐吹き荒れるふたつの都(みやこ)。「蓄電池の父」といわれる京都の島津源蔵(しまづ げんぞう)さんと、「乾電池王」と呼ばれた東京の屋井先蔵(やい さきぞう)さんという、大発明家の軌跡をたどってみたいと思います。
それでは電気をめぐる時空の旅に出掛けましょう♪

「蓄電池の父」・島津源蔵さんは、もとは梅治郎といい、明治8(1875)年に島津製作所を創業した父、初代島津源蔵さんの長男です。

GSユアサのバッテリーって聞いたことがある人も多いかと思いますが、この「GS」とは島津源蔵のイニシャル。2代目源蔵さんは、鉛蓄電池の試作に成功して国内で初めて工業製品化させた方なんです。明治41(1908)年にこのGSブランドを立ち上げて、大正6(1917)年には島津製作所から蓄電池部門を独立させて日本電池株式会社を設立。それが現在はジーエス・ユアサコーポレーションと名前を変えて続いているわけなんですねー。

今では、バイクや自動車はもちろん、航空機の電源として、また深海や宇宙の探索などにもGSの電池が役立っているそうですよ。島津製作所もいまや世界のSHIMADZU。ものの計測や分析をする機器の研究開発や、X線撮影機器の製造などを行っています。

 

2代目島津源蔵さん

 

初代の源蔵さんは京の仏具職人でしたが、1868年の明治維新後に西欧の科学技術の勉強にのめり込み、やがて持ち前の手先の器用さを生かして仏具屋から一転、教育用の理化学器械の制作と修理を請け負うようになります。江戸から東京に首都が移って急激な人口減少で寂びれてしまった京都を、科学技術と近代工業で復興させようという気概が、町にも源蔵さんにもバリバリあったのです。

そんな父の影響か、梅治郎さんは自然と理化学機器の原理や仕組みに興味を持ち、15歳の時には、読めないフランス語の書物の中の挿絵や図解をたよりに、ウィムズハースト式起電機というものを作り上げてしまったそうです。これはハンドルをまわして電気を起こす実験用具です。

ちなみに父親も京都府からの要請で、1枚の図から見たこともない気球を制作して、空高く飛ばしてみせる公開実験を成功させています。

高価な外国製品をただ輸入するのではなく、よく観察して仕組みを知り、自分たちで工夫して作りだすのが当たり前、という島津親子の常識は文句なくかっこいい!

 

初代島津源蔵さん

 

1894年、初代源蔵さんが亡くなると、梅治郎さんは26歳で源蔵の名と島津製作所を受け継ぎました。2代目源蔵の誕生です。彼は生涯でなんと178もの特許を取得し、発明王といっても過言でない方なのですが、蓄電池に関しては、原料となる鉛を、空気の力を借りて非常にこまかく粉砕する方法を発見しています。これで鉛の加工がしやすく、製品の品質も格段にアップしたそうです。

鉛蓄電池というのは、四角い箱の中に希硫酸という液体(電解液という)が入っていて、プラス極に二酸化鉛、マイナス極にスポンジ状の鉛を仕込んで導線をつなげると、電気を貯めたり使ったりできる仕組みになっています。ボルタ電池は亜鉛と銅と希硫酸の組み合わせでしたね! いずれにしても液体を使うので、液体電池とか湿電池とも言われています。

ところがこの液体の管理がなかなか難しい。プラスチックのない時代ですから容器はガラス、漏れたり凍ったり取り扱い要注意! な代物で、しかもかなり重い。そこに疑問を感じて、より軽くて安全な「乾いた電池」を世界で初めて発明したのが、「乾電池王」の異名をとった屋井先蔵さんでした。

屋井乾電池は、幅5センチ、長さ10センチ、高さ12センチくらいの大きさの亜鉛の板でつくった角形の缶の中に、塩化アンモニウム、酸化亜鉛、青化亜鉛、灯心、石膏、水を混ぜたペースト状のものを詰め、ロウで煮た炭素棒を、二酸化マンガンと炭と黒鉛の粉末を混ぜて黒い粘土状にしたものの中心に立てた紙の容器を入れて密閉したもの(型違いで何種類かあるようです)。実験を繰り返して材料の組み合わせと分量をみきわめ、煮たり、ペースト状にしたり、丸めたり……これって、台所仕事とちょっと似ている気がします。

 

屋井先蔵さん

 

越後長岡藩に生まれ、機械いじりが大好きだった先蔵少年は、時計店で丁稚奉公をしていましたが、やがて天体の動きのようにゼンマイを巻かずとも自動で動き続ける永久機関をつくってみたい! というロマンに燃え、一大決心をして上京し東京物理学校の門をたたきます。そこで勉強しながら工業高校の受験に挑戦しますが、二度の失敗で進学はあきらめ、浅草にある教育用の実験機器を作る会社の職工として働き始めました。

昼は職工、夜は永久機関の発明家という生活のなかで、先蔵さんは電気だけで動く時計を、かつ複数の時計を連動させて同じ時間を正確に刻む仕組みをつくりたいと考えるようになります。

そこで、当時高価で手が出なかった液体電池から自作することにして試作を繰り返し、明治22(1889)年ついにゼンマイのない「電気時計」を完成させ、明治24年に特許がおりました。これは電気関係の特許としては日本初のものだそうです。

しかし特許をとったとはいえ電気時計なんて新しすぎて買うお客はほぼゼロ。注文殺到の期待を裏切られた失意の先蔵さんは、原因は電池にあるのではないかと考えて、その改良に意欲を燃やし不眠不休で研究に没頭します。壁にぶつかった時、物理学校時代に知り合った物理学者を訪ねて、当時の最先端の考えを教わったりもしたそうです。

完成した乾電池は、シカゴ万博に出品された帝国大学の地震計に使われて話題になりましたが、特許を取ったのは翌年の明治26年のこと。なけなしのお金をはたいてようやく特許を取り、晴れて「屋井乾電池」を創業した先蔵さんでしたが、まだまだ庶民の生活は電気とは縁遠く、電池を使って動かす電化製品自体がない! ということで、またしても閑古鳥が泣くという切なさ。

そんな屋井夫婦のもとに、明治27年陸軍本部から乾電池50個の注文が飛び込みます。日清戦争がはじまって厳冬の満州でも凍結しない電源が必要になったのです。戦争がきっかけというのが、またちょっと物悲しくはありますが、これで評判を呼んだ屋井乾電池は大きく成長し、大正10年頃には年間20万個以上の生産量を誇ったと言われています。

間もなく起きた大正12年の関東大震災後も、不屈の精神で、もといた神田に会社を再建します。川崎にも大きな製造工場があったそうですよ。

先蔵さん亡き後、乾電池産業の主流は松下電器産業などに移り、屋井乾電池はいつしか歴史の闇に姿を消してしまいました。

足下からのエネルギーシフトと言いながら、まだまだ足下を知らなすぎるという現実にどきりとしますが、見えない琥珀の子のおかげで、今まで知らなかった懐かしい人々に出会えるのは嬉しいことです。

みなさんも、時計の電池を交換するとき、自動車や飛行機に乗るとき、一代の希有な発明家先蔵さんを、今も脈々と受け継がれる島津源蔵さんのスピリットを、ちらっと思い出してみてくださいね。

それではまた次回!

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この記事を書いた人
梅原昭子ライター
引き算の編集が好きです。できないこと、やりたくないことが多過ぎて消去法で生きています。徒歩半径2キロ圏内くらいでほぼ満ち足りる暮らしへの憧れと、地球上の面白い所どこでもぶらりと行ける軽さとに憧れます。人間よりも植物や動物など異種から好かれる方が格上と思っている節があります。
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