私は「活版印刷」という響きに憧れを感じます。幼いころ、祖父母の家の廊下の突き当たりにあった本棚の古めかしい本を手に取り、文字やレトロで可愛らしい挿絵の凹凸を指でなぞってみたときの感覚、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の中で、活版印刷所で「文選」の仕事をしていたジョバンニのことなどを思い出すからかもしれません。
町田市小野路で毎年開かれている「小野路やまいち」へ、今年の春、私は初めて行きました。小雨が降り出す中でも立ち去り難かった、新星舎印刷所の名取玲子さんと、消しゴムはんこ・ぐるり庵の松村せい子さんのお店「SOU・KAMO」がありました。そこで新星舎の活版印刷のノートや封筒と出会いました。
憧れの存在だった活版印刷が、小野路やまいちで手にした新星舎の「読んだらノート」や「やることリスト」によって、自分の暮らしの中にさり気なく寄り添ってくれるようになりました。
お話を聞かせてくれたのは、活版印刷で、あたたかみが感じられるアイデアあふれる商品を作っている名取玲子さん。玲子さんの夫、名取顕一さんが現在「新星舎」の4代目です。新星舎は70年前、この町田の地で印刷所を始めました。印象的な「新星舎」という初代が付けた名前は、その時代を考えるととてもハイカラで、今でも新鮮に感じられます。
印刷の主流が活版印刷だった時代には、名刺はもちろん、会社の名前入りの封筒や伝票、歯医者さんや弁護士さんなど、先生と言われる職業の人たちが持っていた名前入りのレターセット、お店のコースターなど、どれもが活版印刷でした。
活版印刷の工程を大まかに言うと、活字を棚から取り出す「文選」、その活字を原稿通りに版に組み、ばらけないように紐でしばり固定する「組版」、そして印刷機にセットして刷る「印刷」、印刷した版を解いて活字を棚に戻す「解版」に分けられます。それぞれが職人技です。
町の小さな印刷屋では、1970年代に活版印刷からオフセット印刷に移行し始めました。玲子さんが名取家に嫁いできた1995年頃には、さらにデジタル化が進んでいて活版印刷は風前の灯火状態だったそうです。そんな変革の流れの中でも「ここに機械があって、職人さんがいたから、活版印刷を続けることは新星舎にとっては自然なことでした」と玲子さん。
「人が手間暇をかけて作るものには、それなりの価値があると信じています。それは一目で区別がつくものではないかもしれませんが、そうして丁寧に作られたものが日常の中にたくさんあるということが暮らしの豊かさにつながっていくのではないかと思います」と玲子さん。
新星舎には玲子さんが「継続は力なりを体現している職人さん」と紹介する、この道50年の職人、伊藤繁さんがいます。
そしてこの日は会えませんでしたが、25歳という若さで今、新星舎で職人の道を歩み始めた石井裕美さんがいます。美術大学を出てこちらの門を叩いた裕美さんは、最近流行りの活版のデザインに憧れてではなく、「機械を回したい」「組版をやりたい」という根っからの職人気質だそうです。二人とも「当社の財産です」と玲子さんは信頼をにじませます。
新星舎では、年に一度町田市立の中学校の職場体験の受け入れもしています。玲子さんは、子どもたちがこういった製造業、二次産業の現場を体験する機会を大切に考えています。
「ものづくりの現場の〈暑さ、寒さ、汚れること、匂い〉を体験し、ものにつく「値段」には理由があるということを知ってほしいと思っています」と玲子さん。
玲子さんは活版印刷を通して、年齢を超えた様々な出会いを楽しんでいる印象を受けました。小野路やまいちで毎年、新星舎のお店にやってくる中学生くらいの女の子がいるそうです。絵を描くのが好きという彼女に、玲子さんは手のひらより小さなサイズの豆本を作ってやまいちへ持って行ったことがあります。「パラパラ漫画なんかに使えそうだなあと考えながら作って、そんなふうに誰かを思い浮かべながら商品を作るのも楽しいし、そんな出会いがあるから小野路やまいちっていいんですよ」(玲子さん)
「活版印刷といえば文字の凹凸や擦れなどが、味があるとして再び注目を浴びていますが、印刷屋の高い技術というのは、本来は、活版印刷でもほとんど凹凸を感じさせないなめらかさや、緻密な線にあるものです」。玲子さんはつづけて「けれども今は、味わいとしての凹凸が求められることもあります。それはそれとして新しく受け入れて、お客さんが求めている品物の相談に乗りながら一緒に作っていくのも楽しいと思っています」と言います。
「活版印刷は印刷屋の原点」という玲子さん。新星舎には創業70年、時代の流れの中で、変わらずに重ねられてきた丁寧な仕事の蓄積が今も自然な風貌で動き続ける機械や道具に刻まれていました。
デザインする人間、形にする人間、道具と機械、そのすべての歯車が合わさり、回転し、印刷物が完成するということを、活字の持つ力と未来への希望を持って教えてもらった時間でした。
有限会社新星舍印刷所
住所:町田市原町田4-16-13 (町田市民文学館ことばらんど並び)
tel:042-722-3359/fax.042-726-7739
営業時間:8:30-17:00 土日祝日はお休みです(第1・5土曜除く)
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